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2007年04月05日

【写真】Every Sunday──福居伸宏(デジカメWatch)

image【Web写真界隈】
Text by 内原恭彦

コメント
1 投稿者: (211.132.94.18) : 2007年04月05日 09:42

また長時間露光物ですかw
長時間露光自体悪いとは思わないが、もうちょっと見栄えのする被写体を見せて欲しいね。

2 投稿者: (125.3.76.16) : 2007年04月05日 11:24

ここは写真の表面的なことやカメラのことしか語れない
人たちが集まる、“消耗戦的な「論争」”以前の掲示板・・・。

3 投稿者: (61.118.177.131) : 2007年04月05日 11:46

>2
“消耗戦的な「論争」”以前の掲示板・・ってなんだよww
ゴタゴタ不毛な書き込みばかりしないで、お手本とやらを見せてみろ!

4 投稿者: (125.3.76.16) : 2007年04月05日 12:26

>3
ところで俺は、なぜこんな写真を撮ってるのか?
これが俺の物の見方(考え方)なのか?
どうしてこんな見方をしているのか?

などとまず自己の写真について考えてみるのも1つの手じゃないか。
(表現に興味がなければ、どうでもいいことだろうが)
それを今度は他者に向けたり、他者から指摘されたりだ。

とりあえず、俺の見本なんてこんな程度だから、
写真学校や芸術学部でも行け。
否、それはそれで枠にはまるから、

※内原氏周辺というのも、
何か理論枠にはまって、
窮屈になっていっているような気がするんだけど、
どう思う?3番君?

結局は「自分で考えろ!!」ということだ。

5 投稿者: (222.15.68.196) : 2007年04月05日 13:37

なるほど
こうやってレトリック振り回すのもアートか
勉強になるw

6 投稿者: (220.38.100.7) : 2007年04月05日 13:46

しっかし、この連載いつまで続けるつもりなんだろう?

7 投稿者: (85.25.136.135) : 2007年04月05日 15:01

またゴミ界隈か。
ゴミ界隈の書き込みには必ずゴミみたいなイカレた奴が出てくるな。
類友ってやつか。
なんか家族とかからウザがられてそうだな。

ところで、内原さんは、ゴミ界隈が評価されていないことに気付いてないみたいだな。
それとも意固地になって続けてるのか?

8 投稿者: (211.132.94.18) : 2007年04月05日 16:40

>ゴミ界隈の書き込みには必ずゴミみたいなイカレた奴が出てくるな。
>>7 オマエモナーw

9 投稿者: (61.118.180.245) : 2007年04月05日 17:00

>7
というか、お前が1から7までの書き込みの中で一番イタイ人に見えるぞw

10 投稿者: (125.195.93.71) : 2007年04月05日 20:17

おいおい、見せる写真だぜ、この人。俺は気になるから今度やってるグループ展にも行く。

>2もその話は今回の記事で触れてるんだから嫁!写真やれば陥る悩みだ。>3は悩んだ奴だろう。
レトリック云々言ってる奴もこれまでの偉大な写真家はかなりの
書き手でもあったことを分かっていっているのか?

内原さん当初のWeb写真界隈に回帰してきたように人のサイトにお邪魔して、みたいな
連載にしているけど今度は自分と似たような匂いのする人を探している。
この連載の展開がどうなるのか、楽しみだ。内原さんも少しずつ作風が変わっている。
デジカメWatchみたいなのにこういう連載があってもいいじゃん。
昔は小林紀晴がメンズノンノに連載持ってたくらいだし。

11 投稿者: (129.237.140.84) : 2007年04月05日 21:26

上手い写真をけなし、
つまらない写真を誉めると、

プロっぽく思われる。
これ真実。
ここに書き込む人はエセ哲学者とキヂGuyばかりですね。
端から見てると面白いです。

12 投稿者: (210.136.23.101) : 2007年04月05日 21:28

で、4は自己の写真について何を考えたのか、
これからここに書き込んでくれるわけなんだろう?
枠にとらわれない意見というものがどんなものなのか楽しみだ。

「自分で考えろ!」くらいなら誰でも言えるものな。

13 投稿者: (125.195.67.159) : 2007年04月05日 22:29

まったく、人のこと叩くことしか興味無いやつ多すぎ。
キモカメには写真を理解することは無理なんだな。

14 投稿者: (210.136.23.101) : 2007年04月05日 22:45

>13
3番や10番のような真面目な書き込みを前にして、
そんな発言は失礼だと思わないのか?

君も人のことを叩いてるだけで、
写真について一言も語ってないじゃないか。

何か書いてくれなきゃわからないぜ。
俺みたいに芸大で枠にはまった写真論を叩きこまれた人間には、
本当の意味で写真を理解することは困難だからな。
他者の言葉に耳を傾けねばならないのは、4番の言うとおりだろ。

15 投稿者: (222.15.68.204) : 2007年04月05日 23:12

4もたいがいレトリック振り回しだと思うのココロ

16 投稿者: (222.15.68.201) : 2007年04月05日 23:15

個人的には>>6に大いに同意
一年でケジメつけると思ってた

17 投稿者: (219.4.170.2) : 2007年04月06日 00:29

この人、理路整然としてるだけでレトリックじゃないと思うんだけど?
言葉や雰囲気でごまかそうとしてないのはよくわかった。
でも、はっきりいってこの人の写真はよくわからんよ。
カラッポな感じがする。
ホームページは妙に気になる写真もあるな。

18 投稿者: こがらし(211.128.192.5) : 2007年04月06日 01:00

私も 「Web写真界隈」 を興味深く読んでいる一人です。

モノクロフィルムの自家現像から写真をやってきた自分のような人間からすると、フィルムを経験していないプロの登場という状況は、なかなか興味深いものがあります。
また、これらデジタル世代のカメラマンが、 「いったい何を考えながら写真を撮っているのか」 、そのことについても知りたいという好奇心がありますね。

とくに今回の記事を読んで面白かったのは、こういった最近デジタルで写真を撮りはじめた人たちが、森山大道さんや中平卓馬さんなど、いわゆる’70年代にコンテンポラリーフォト (コンポラ) として認められたような作家に大きな影響を受けているというところ。

ある意味、 「写真表現の分野は、’70年代のコンポラから1歩も進展していないのか?」 という気分にさせられる一方で、 「やはり、このあたりから始めるのが、次の写真表現への足がかりなのかも知れないなぁ」 、などと思ったりもしています。

私なりの結論めいたことを言うと、写真表現は30年前からほとんど進展を見せていない一方で、世の中だけはどんどん変わってきてしまった。
現在の写真表現というものがあるとすれば、どうしようもなく変わって行ってしまう変化の流れの中で、とりあえず現在を記録しておく、そういった 「写真の記録性」 というものは、まだ有効じゃないか・・・
そのあたりを足がかりにして、 (彼らは) 写真を撮っていくしかないのかなぁ、なんて考えたりしています。

私などは、あいかわらずバカみたいに、今年も桜の写真などを撮ったりしていますが...(^^;
桜の写真に関しては、将来、3板式で良いカメラが出たら、そういった新しい技術を利用し、あらためて撮影したいというふうにも思っているんですよね。

19 投稿者: (219.104.46.47) : 2007年04月06日 01:06

そう、敢えて空っぽに見えるような撮り方をしているね。
安易に言葉で置き換えられるのを拒否するような写真だな。

ありふれて、特定できないような場所の写真を並べることで自分の住んでいる環境のエッセンスを取り出そうとしているように思える。
昼間だと普通過ぎるので、夜景で少しだけ普段とは違う見え方になるような味付けをして。


20 投稿者: (221.113.203.202) : 2007年04月06日 03:06

うん、自分も17や19の人と同じで、どこか自分の感情が入りづらいというか、
写真について考えようとするのを拒否しているようなところがあるように思えるね。
それは中身がないということじゃなくてさ。
自分も以前に「夜」をモチーフに写真を撮り続けていた時期があったんだけど、
「夜」というのは、それ自体に死や恐怖、性的イメージといったものから、
孤独や安らぎ、詩的なイメージといった幅広いメタファ的要素を含んでいるから、
撮る側はもちろん、見る人にとってもある種の感情を引き起こさせやすいモチーフだと思うんだけど、
この人の写真には、19の人がいうように、
それを容易に許さないというか、
なにか見る側の感情移入を拒んでるようなところがあるね。
本人がそのことについて自覚的にやっているのかは分かんないけど。

21 投稿者: (218.229.192.251) : 2007年04月06日 09:26

コンポラねぇ...。表現形態のひとつとして理解はできるけど好きではないな。
いまひとつ表現意図というか表現動機が希薄な気がして、それは芸術なのか?と、いつも疑問符が付く。考え続けても一生わかんないかもしれない。

22 投稿者: (210.159.160.74) : 2007年04月06日 10:02

バカにするつもりはないが、こんな写真になにを長々と理論めいたことを書いているんだ。
内原やこの写真家を擁護したいのか?すっきりとしない後味の悪い文面にオタク臭さを感じるよ。
写真は見せてナンボのものだろう。だから写真について語り過ぎるなってことだよ。

23 投稿者: (125.198.9.165) : 2007年04月06日 10:11

>14
すみません。実は13は10です、僕です。あんまり荒れ果ててるのでつい。本当にすみません。
でもこの手のデジカメ(カメラ)が主眼にされたサイトを評する言葉としては13の発言を取り消す理由はないと思っています。

ですね、思いっきりコンポラな撮り方ですね。選ばれる被写体もよく似ている。
でも中平卓馬などが自己の肉眼で写ったものをそのまま記録したいという欲求によってあの夜の撮り方をやっていたのに対して
今度は自分の目にうつるそれ以前の目に映らない夜景そのものとでも呼ぶべきものを撮るというまったく逆のベクトルが入っている。
こういう作家性不在というか、自己を封入しないものを作ることが芸術であるという動きがずっと、
少なくともある部分では推進されていると思います。これはおそらく写真に限らないのでは?
だから>21のような感想は的を得ていると思います。でもなぜかそれをやってしまう。興味深い話です。
一方で私写真が流行り続けている...

僕は大学は出ていますが非芸術系の学問を修めているので芸術系の大学はどういうことを教えているのかさっぱり分かりません。
写真についてはどのような教え方をしているのでしょう?少しご教示願いたいです。>14

24 投稿者: (125.198.9.165) : 2007年04月06日 10:16

>>22
言いたいことはよく実感できます。でも作品の裏でそれについて考える行為とは必要ではないでしょうか?

25 投稿者: (210.159.160.74) : 2007年04月06日 10:27

>>24
語り合うことは否定しないけど簡潔にね。
ここは君達だけじゃなく大勢の人が見ているわけだから。

26 投稿者: (61.118.187.201) : 2007年04月06日 10:39

というか、この写真に語るべきものが何もないというのなら、
ゴタゴタ言わずに静かにスルーすればよろし。
25こそ自分の固執した考えを人に押し付けているように思える。

27 投稿者: (210.159.160.74) : 2007年04月06日 10:48

>>26
スルー

28 投稿者: (211.123.199.142) : 2007年04月06日 11:31

> 23
芸術というのが人の内面の発露であるとするなら、作家性不在の作品は芸術とは呼べない気もします。難しいけど。
難しい芸術論や表言論は脇においとくとしても、単純な話、内原氏や氏が紹介する写真家達の作品を見ても何も感じないなんだよなぁ。被写体によって単に退屈か不快かの違いはあっても。
内原氏のゴミ写真は、「不快」という感情が湧いてくる分マシなのかもしれないとは思ったりもするけど。

彼らは作家性や構図による演出などを排して、いったい何を表現したいのだろう?
彼らの写真を見るたびに考えるのだけど、やっぱり私にはわからない。

29 投稿者: (125.14.136.91) : 2007年04月06日 13:33

28さん  いっぱい見れば、写真の面白さがもっと広がりますよ。タブローじゃないから、写っているものをみないで、
写真をみてみて。

30 投稿者: (219.108.75.236) : 2007年04月06日 13:42

↑ナイスコメント。

31 投稿者: (222.15.68.216) : 2007年04月06日 16:17

この連載はきっと内原さんの写真付エッセイなんですよね?芸術というなら写真を言葉で説明しようとしない方がいいと思います。

32 投稿者: (210.136.23.101) : 2007年04月06日 17:05

>23
他のところは知らんけど、うちの芸大ではディスカッションばっかりやってたよ。
絵を描いては合評、写真を撮っては合評、という感じ。
「枠にはまった写真論」というのは4を挑発するための嘘で、
本当は技術論と写真史以外は何にも教えてくれんかったね。

その意図を表現するならこうした方がよかったんじゃないか、みたいな議論が多かった。
自分の意図が見る側にうまく伝わるとは限らないことや、
誰が見ても同じように見えるとは限らないということを、
じかに思い知って考え直す機会というか。
それは人の言葉に触れなきゃわからないものだから、
写真について長々と語るなという意見には全く賛同できない。
ターミノロジーを避けた方がいいのは25の言うとおりだけど。

まあ、内原氏や特集の写真家たちが、
ここの言葉を真面目に読むかどうかがまず問題っていうのもありますけどね。

33 投稿者: (221.113.205.85) : 2007年04月06日 18:08

>その意図を表現するならこうした方がよかったんじゃないか、みたいな議論が多かった。

へぇー、ということは、写真の好き嫌いは別として、
この福居さんの写真は、いままでの書き込みで何人かが指摘しているように、
その「意図を表現する」のを拒んでるようにも思えることから、
芸大生が学んでいる既存の手法の、さらにその先へ踏み出している可能性もあるってことだね。

34 投稿者: (222.15.68.203) : 2007年04月06日 18:57

普通に理学部を出たので芸大がどんなところかわかんないけど
一種のブレインストーミングは面白そうだ。
この連載の写真の良し悪しは別として、最初からこのコンセプトで連載してれば、
このコメント欄も今みたいに合評みたいな場にもっと早くなってたかもしれないのに
内原は意味不明な掲載を続けすぎた

35 投稿者: (221.243.117.218) : 2007年04月06日 19:15

つうか、どこぞで学び、議論してレトリック駆使しても何をテーマしたらよいかもはっきりせず、作家性を獲得できない惨状を写しているのがこの内原界隈でしょ?だから考えるのをあきらめてただただシャッターを切るしかない。1/1000秒でも30秒でも同じ。数だけはあるので毎日更新するブログには最適。以前出てきた大竹伸朗もそんな感じで突っ張り通した人だから内原にとってはいいお手本なんだろう。

惨状の原因は他の人が指摘しているとおり他者性の欠如だろうね。
まあ一人で勝手にやるのがコンテンポラリー(今風)なんでしょ。

36 投稿者: (211.123.199.142) : 2007年04月06日 20:56

> 29
写っているもの(被写体)は別に何でも良いのです。ゴミは見てて気持ちの良い被写体ではないけれど、それ以前の問題として、「何を表現したいのだろう?」という表現意図が何時見ても何度見てもわからないし、内原氏らの写真からは伝わってこないんです。私には。

33氏の言うように、あえて表現意図や作家性が見る者に伝わらないように「意図を表現するのを拒んでる」のでしょうか?
だとしたら成功していると言えるのかなぁ...。

37 投稿者: (219.104.49.105) : 2007年04月06日 21:51

わからないものをわからないままに受け入れる姿勢とかないのかな。

簡単に言葉で置きかえられるような作家性や表現意図があるほうがいいとは一概には言えないんだけど。

やっぱり理解した気になって安心して見られるものがいいのかね。

38 投稿者: (61.124.193.198) : 2007年04月06日 23:46

>37
いいや、この場合写真に見えている以上のものが表現できていないから、一定の人たちをわからない状況に陥れている。ピカソみたいな「わからない」の場合は観賞という大きい意味の訓練が必要だが、界隈の人々は表現が浅すぎてなにがしたいのか?---何ががしたいかはわかるが、それが一体どうした?という気分になる。

18に出てくるような前時代の作家がわかりやすいものを壊しきり---最初に壊した人には名誉があるが---それに影響を受けた「界隈の人々」は壊れた遺産を一生懸命再生産してさらなる瓦礫の山を作っているだけかもしれない。


39 投稿者: (218.229.192.251) : 2007年04月07日 00:52

芸術や表現の全てを言葉で説明出来るとは思わないが、説明してみようとする試みは無為ではないと思う。
他人に説明しようとする事で、自分自身の理解が深まったり、間違いに気付いたり、認識が変ってきたりするものだから。
あえて言葉にしようとせずにわかったつもりのままでいれば、わからないと言う人に対して僅かな優越感を感じる事は出来るかもしれないが、ただそれだけの話だよね。

40 投稿者: (125.14.136.91) : 2007年04月07日 04:20

面白い話がいろいろ出てきましたね。
>36
撮る前からみせる前提で写真を撮ったりつくったりして、きれいだとかいいとかの世界と違うのは、
例えば時間軸です。撮っている瞬間の撮影者の目に重なりませんか?
作家性や表現意図、テーマ、コンセプトがあると他者の目、考えが面白い。他の表現と近いですけど、
もっとプリミティブな目が反応している、いい意味で遊びといいましょうか。
そういうとこからスタートしている人たちじゃないでしょうか。先人もいますけど。
ただ見るということです。

41 投稿者: (219.4.170.5) : 2007年04月07日 05:45

知ったかぶりしたカメヲタが集っている感じですな。
18の言ってるコンポラの定義は間違ってるし(コンポラとプロヴォークは対立する)、
23の言ってる芸術は内面の発露はダダ以前の話だし(今は19世紀ですか?)、
14に至っては上野の学校に通ってたとは思えないバカなこと言ってるし、
38がピカソなんか持ち出してるのは論外でしょう。
まずは重森弘淹(古典中の古典)あたりから読み直してから出直しなさい。
そして自分の写真オンチぶりを反省して、おおいに恥じるべきだ。
http://www.shigemorikoen.jp/koen/gs/top.html

42 投稿者: (219.4.170.5) : 2007年04月07日 05:54

>41
訂正:リンク間違い
http://www.shigemorikoen.jp/koen/sg/top.html
http://www.shigemorikoen.jp/koen/ss/top.html

43 投稿者: (221.113.200.130) : 2007年04月07日 11:45

>41
と言ってるアンタは本で得た借り物の知識でつまらない揚げ足を取ってるだけで、
写真については一言も語れない分、アンタが批判しているヤツ以下じゃないか。
せっかく得た知識を披露したいのは分からぬでもないが、
安全な場所から、それこそ、ひとのふんどしで相撲をとってないで、
本当の意味でその知識が深い理解につながるように、
アンタ自身の言葉として写真について語ってみてはくれないか。

44 投稿者: こがらし(61.124.206.156) : 2007年04月07日 12:11

>>41
18の発言で私が話をしているのは、コンポラの定義ではなく、’70年代においてコンテンポラリーフォト(同時代の写真)であったものを、30年後の現在、あらたにデジタルで写真を始めた人たちが注目している点が興味深い、と言っているわけです。

私がWeb写真界隈という記事に興味を持っているのは、 「私たちはなぜ写真を撮るのか」 という問題をあつかっているからです。
言い方を換えれば、 「なぜ写真なのか」 。

私としては、 (彼らが) 自分の身のまわりの世界に (それでも) 興味を持っているから、あるいは、興味をつなぎとめるために(?)、写真を選んだのではないか、というふうに漠然と理解しています。
「それでも」 と書いたのは、彼らの世界観には、やはりどこか冷めたところを感じるからです。
どことなく喪失感がただよっているというか・・・

写真 (あるいはあらゆる作品) についての自分の評価はシンプルです。
好き、嫌い、興味がある、興味がない、この4種類の範囲内に収まるからです。

Web写真界隈についての自分の評価は、写真については 「嫌い、でも興味がある」 、文章については 「好きだし興味がある」 といったところでしょうか。

しかし、本当の問題は、その先にあるわけです。
なぜ自分はその作品を好きなのか、あるいは嫌いなのか。
なぜ興味がわくのか、興味がわかないのか。
「たんなる気分や感情の問題なんだからいいじゃん」 と言うのは簡単ですが、ものごとの本質や内容というのは、そういった表層(うわべ)とは別に、実はその先、もっと掘り下げたところにあるわけですよね。

人間が動物よりも優れた点があるとすれば、そういったモヤモヤとした気分や感情を、ことばという道具で、分析したり共有したりできる点にあります。

45 投稿者: こがらし(61.124.206.156) : 2007年04月07日 12:27

>>44
文末を、 「人間が他の動物よりも優れた点があるとすれば・・・」 に訂正。

46 投稿者: (220.106.52.194) : 2007年04月07日 22:17

つまりね。(誰に言ってるわけでもないが)

自己表現が普遍化した時代の異物というのは、価値を共有できる異物にしか影響を与えない。
彼は(誰?)自ら試料になろうとしているのだから、放っておけば良い。

理解できないことで苦しむのはエゴの発露。誰も止めない。
多分、試料どもが待ち望んでいるのは、「世界を変える意志」
不安に耐えられないもの(或いは在り来たりの大衆)は信仰に走る。それでも良い。

内原は藁人形を神棚に飾ることはしていない。それでいいじゃない。(つまらない代物だけど)

47 投稿者: (61.118.187.67) : 2007年04月07日 23:18

↑達観したような物言いだが、実のところ何も理解できてないない人の文章だな。

48 投稿者: (210.136.23.101) : 2007年04月08日 00:22

おお、いいねえ。
43同じく、俺も41の文章が楽しみだ。

俺は劣等生でさ、合評ではいつも不真面目な発言を叩いては、
賢いやつ勉強してるやつに道を譲るという役目を買ってたんだよ笑。

49 投稿者: (218.229.192.251) : 2007年04月08日 00:52

> 46
さっぱりわからない。
世界を変える意思?信仰?
彼ら(内原氏ら)に世界を変える意思があると?
その意思が彼らの写真から見えてくる?
どう見たらそうゆうふうに見えるのか教えて欲しい。わからない人にもわかりやすい表現で。

50 投稿者: (220.106.52.194) : 2007年04月08日 01:19

>>49
どう読むとそう読めるのか・・・おれは知りたくもないなw

51 投稿者: (61.124.193.198) : 2007年04月08日 02:30

46に素直に賛成する。
utsuno氏がリンクをやめればWeb界隈はこの世に存在しないも同じなんだが・・・デジカメジン見るのも卒業するか。

52 投稿者: (221.113.199.245) : 2007年04月08日 03:11

46は単純に自分の言葉に自家中毒になって酔っぱらってるだけで、
明日になって素に戻ったら、自分の書き込みに赤面して苦しむはずだよ。

53 投稿者: (125.197.195.8) : 2007年04月08日 07:41

>41はどうしたのかな?
写真論における知識人を自負するなら少しくらい書いてくれてもいいのに。
上からの目線であなたは知識が足りない、の一言でカタをつけようとする態度が
気に食わなくて写真論について話をするのを嫌がる人もいるというのに。
つまり彼のような人が自ら写真論を一般から遠ざけておきながら
他の人を写真オンチだとバカにする。とても惨めな自作自演だと思うんだが...
このままでは個別の明らかな誤りを指摘して優越感に浸るだけが写真評論だと思われる。
ここで多くの人が発言していた「あえて空っぽに見えるように撮られた写真に見える」
ということを否定して攻撃してくれるならまだしもね。

俺も研究者(分野は違うよ)やってるけど、>41のような態度は百害あって一利なし。
自分の学問の評判を自ら貶めて何の意味がある?
きちんと説明したり議論したくないなら語るべからず。へらへら笑って愛想よくしていれば良い。
彼が写真で食ってるならまわりの人に対して迷惑かけていると自覚するべきだし、そうでないならなおタチが悪い。

>41は多分どこかの写真論専攻の学生かカメラマン(写真家とは呼ばないよ)だと思うんだけど、
このへんはどう思うんだろうか?少し煽っておこう。

54 投稿者: (61.112.244.249) : 2007年04月08日 16:06

>このままでは個別の明らかな誤りを指摘して優越感に浸るだけが写真評論だと思われる。

あれを読んでそこまで 41のことを気に掛けるのは君の妄想だよ。
芸術に関する評論全体を胡散臭いものと思うのが世間の感覚なんであって、
あれがあれにリンクして見せてああ言った、ということで、もう馬鹿にされているだろう?

60年代に重森の評論が価値を持ち、その価値はいまでも失われていない。
・・・にしても、それはあの時代が「今を分析する」ことを求めていたからだ。

性急に「今を分析する」ことを誰か求めているのかね?
真剣に求めている人間は別の方を向いてるだろ?
「研究」も「アート」も「評論」も金を引き出すには、それを求める人間との回路を開かねばならない。
「研究」ならば成果が蓄積されることに価値がある。
だが、後の二者はどうかな。
「流行通信」と言ってくれたほうがまだ気持ちが良い。それが今の気分じゃないのか。

・・・戦後の廃墟の中から再生する日本(今から見れば貧相な家屋と元気に遊ぶ子供達、建築ラッシュ)、
経済的反映と超高層建築、国家的イベント、そして廃墟。
それに連なる人のいない住宅街の光景は、人口減の始まった日本の姿を映し出そうとするのかもしれ
ないが、価値を持つのは30年後だな。

同時代の証言として手元に置きたいとも思わないし、何が写っているか判れば金を払ってみたいとも
思わない。まったく憂鬱な代物だ。(記録が必要なことが判るだけに)

・・・だから別の表現方法を考えろ、と言いたいね。「金を払えるのは廃墟まで」だ。

55 投稿者: たで(222.7.74.49) : 2007年04月08日 16:29

 作者が作品で表現しようと試みた自分の内面の感情を、作品を閲覧する者が想像できないならば、チューニング
がずれたラジオ宜しく作品からは雑音だけしか聞こえない。しかし、感受性を働かせて作家にチューニングしても、
作品に共感できるとは限らないのが芸術。前者は内容が「理解できない」状態で、後者は「好みに合わない」状態。

 その上、他人の作品を読み解くために必要なチューニングは楽じゃない。焦燥感や虚無感や熱狂などの雰囲気を
共有する人々同士なら、ある写真から同一ではないにしても類似の感情が呼び覚まされ作品の理解に繋がるけれど、
雰囲気を共有する接点がないとき遠くの局からの放送同様、受信者にとって雑音に満ちた理解し難い作品になる。
(そこでアンテナを伸ばすか、聞くのをやーめたっとなるかは、放送の魅力と聞き手の資質に因るのでしょうが)。

 私は、福居伸宏さんの写真を見ると何となく不安感が呼び覚まされます。万人に共通の感情かは不明ですけれど。
それから、Webで表現されている福居伸宏さんの一連の写真の雰囲気が、反射光で見る展示物でどうなるか興味が
あります。自光する媒体(ディスプレイなど透過光)に向いた映像のように感じるからです。残念ながら、展覧会
は見に行けそうにありませんが。

56 投稿者: (219.31.129.117) : 2007年04月08日 16:38

わからないわからない言ってるやつは自分の理解力のなさを発表してるだけだなw

57 投稿者: (61.112.244.249) : 2007年04月08日 16:49

「大ネタ」のない時期にあれにこだわり続けてもしょーもないと思うんだが。
他を見つけて紹介してくれよw

58 投稿者: (61.124.193.198) : 2007年04月08日 18:29

人は自分に都合のいいことしか見ようとしない。

59 投稿者: (219.116.175.15) : 2007年04月08日 21:36

人は自分の器に見合っただけしか見ることが出来ない。

60 投稿者: (218.41.181.249) : 2007年04月09日 10:53

写真を観て批評しようとするなら、写真史や写真についての思想の知識じゃなくて、何が写っているかっていうのを良く観ることが大切なんじゃないかな。

例えば、この記事の夜景の写真だったら、まず、構図の目立つところに人工の光が必ず入っているということ。具体的に言えば窓から漏れる光。一番最後の夜景写真なんか特に分かりやすい。本人はインタビューで「1日のうちでいちばん暗い(と思われている)時間帯に撮影しています」と言っているのに、闇ではなく、わざわざこういう被写体を目立たせて撮っているという事がわかると思う。

これは「場所や場所の意味というよりも、空間が感じられるようなカット、そこに写っているモノがモノとして立ち上がってくるようなカットを選びます」という言葉にある「空間」とか「モノ」っていうのが光と影の対比であるということを強調したいからのようにも思えてくる。

夜っていうのは地球の影のことなので、小さな人工の光と大きな自然の影という強烈な対比の中に、現代の人の生活する空間(とその儚さ)っていうのを立ち上がらせようとしているのではないか、というふうに考える事もできる。あくまで一例としてね。読み取り方はそれこそ人それぞれ。

写真史や思想なんかの知識はこういう事をちょっと読みとってからでいいんじゃないかな、読み取った作風が誰に似ているとか、どういう表現形式かとかそういうの。知ってれば更に深く追求できるし、知らなくてもそれなりに深読みして楽しめるし。この作者の作品が批評するに値するかどうかもその後の判断でいいと思う。

41氏のコメントみたいにいきなり抽象的な写真論を勉強しろっていうのは、写真を観ずして写真を批評することにつながりかねないよ。批評のための批評みたいな・・・。そういうの好きな人もいるけど、写真批評としてはやっぱりおかしいよ。

長文すみませんでした。

61 投稿者: (59.128.136.189) : 2007年04月09日 18:56

つまんねー議論

62 投稿者: (203.179.93.204) : 2007年04月09日 23:06

>60 「夜っていうのは地球の影のことなので・・・」
ってところ良いですね。面白いです。

あと、「写真史や思想なんかの知識」について、不勉強とかって他人に言うことができるのは、すごいですね。すごい傲慢ですね。百歩譲って、写真家ならば言われても仕方のないことかもしれませんが、観る人たちにとって、その人の現時点で感じたこと、意見というのを語る権利は十分にあると思うけど。

俺はこの人の写真というのは、とても頭デッカチな感じがします。なんか撮らされている感があるというか。ワークショップへ行って、そこで定まった方法論や方向性にあまり疑問を持たず、なんかそのままやっちゃってる感じがする。もちろんそこに細かいルールを課してるのはわかるのだけれど。
ただそれの繰り返し。正直安易だと思う。写真なんてのは、いくら理論武装してもしょうがないものだし、観る者の目になんらかの刺激がなければ退屈なだけで。ただ、その刺激を与えることができるのはやはり並々ならないことだと思う。俺は、こういう写真史を多少学習した上で、単純な方法論で安易に作品化してしまおうとする風潮には反吐がでます。

ちなみに内原さんのスタンス(無テーマ主義)というのは、写真行為としてはとても正統ですよ。ただ、最後に俺のお下劣な勘ぐりだけど、内原さんはこうして誰かを紹介しているけれど、本当に嫉妬するくらいのすごい写真を発表していたら、きっと紹介する気にはならないよね。表現の世界なんてある意味、戦いだもんね。そこんところどうなのよ?って聞いてみたいですね。群れてもしょうがないでしょう?

63 投稿者: (220.211.183.138) : 2007年04月10日 01:53

>62に禿しく同感。
>こういう写真史を多少学習した上で、単純な方法論で安易に作品化してしまおうとする風潮には反吐がでます。

最近とくに多いね。こういう写真。

64 投稿者: (221.113.201.232) : 2007年04月10日 04:24

>こういう写真史を多少学習した上で、単純な方法論で安易に作品化してしまおうとする風潮には反吐がでます。

その辺をもう少し実際の作品に照らし合わせて、例をあげて説明していただけるとうれしいのですが、いかがですか?
写真史をあまり学んだことのない私から見ると、やはり62さんもある種の知識から話しをされていて、内原さんの考え方や方法論については、62さんなりの推測や意見が述べられていますが、60さんやその前の何人かの人が試みている「その写真には何か写っているのか」という部分にはあまり触れられてはいないような気がします。そして、これまで読んできて非常に歯がゆく、また、不思議に思うのは、62さんのようなある程度写真を学ばれた人たちが、まるで申し合わせたように、実際の作品を読み解こうとは一切せず、ある種の知識から出された抽象的な結論で作品全体を(それこそ安易に)切り捨ててしまっている点でもあります。

65 投稿者: (220.211.8.230) : 2007年04月10日 09:46

福居氏も内原氏も、いい写真撮る新しいタイプの写真家だと思うけどな。
批判ばっかする人は、なんでちゃんと写真を見ないんだろう。

内原氏は「わかりやすい前衛」。
福居氏は「わかりずらい前衛」、というか「静かな前衛」だと思った。

以上、個人的な感想です。

66 投稿者: (210.159.250.4) : 2007年04月10日 10:36

>写真なんてのは、いくら理論武装してもしょうがないものだし、観る者の目になんらかの刺激がなければ退屈なだけで
この部分には禿げしく同意、他の部分も>>62の意見に概ね同意。

>>65 前衛ってこんなもん?
アグレッシブさやインパクトを感じないんだけどな。

67 投稿者: (59.128.141.92) : 2007年04月10日 18:38

単なるプレゼンテーションのひと、
写真に耳障りのよいコピーをつけて提案、
夢は写真雑誌の編集長、
みたいな奴は多いけどそこまでひどくはないかな。
いつまで撮っていられるかしらんけど。

68 投稿者: (125.195.54.14) : 2007年04月10日 21:07

なんか芸術を単に直感に訴えるものだと考える人が多いのは少しね。

写真なんて押せば写るんだから、あっという間に行き詰るのは当たり前。
その上で芸術たろうとしたら意識的な努力が必要なんだよ。
例えば絵画から引いてみよう。
印象派やら何やらが目の前に対象をおかずに絵を描く技法を編み出したのは何でだと思う?
目に映るものからはかけ離れた相貌にしてしまうキュビスムの冒険は?
あれらが本当に彼らの直感だけで生み出されたと考えるのだろうか?
哲学、理論が無ければオリジナル足り得ない。

刺激が欲しければ何をやれば刺激的か、考えなければしょうもない。

あと内原さんは非常に写真らしい写真を撮る人だよ。いかにも押せば写る、というね。
もとはもう少し違う方法も使っていたんだけど、直近は押して写った写真だね。
それは悪いことじゃない。本当にそういうメディアなんだから。
そしてそれが彼の写真で僕が好きなところ。

69 投稿者: (222.15.68.202) : 2007年04月10日 22:32

の割に本人いっぱしのアーティスト気取りみたいだけど

70 投稿者: (221.113.204.192) : 2007年04月11日 00:12

>68
引用するだけで何かを語っているつもりなのだろうが、
どっかで聞いたことありそうな、ありふれた結論が唐突に述べられているだけで、
それに至る経緯が、わざわざキュビスムを持ちだしているにも関わらず、
ほとんど説明されていないのはなぜなんだろう?
それこそ理論が何も語られていない核心の抜け落ちた結論というのは
説得力にかけるものだと思わないのだろうか?

申し訳ないが、そんなんじゃ、
下手な知識が自分の頭でモノを考えることをジャマしている
典型的なパターンとしか思えないんだよな。

71 投稿者: (210.136.23.101) : 2007年04月11日 04:53

>68
印象派もキュビスムも対象描写から出発してることに注意。
あれは目に見えているものをいかに切り取るかの問題だから。
写真の技術が進歩するのに伴って、それまでのような「写実」表現に絵画の売りがなくなっていった中で、
芸術家たちが写真とは違う描写の可能性を探っていったのが十九世紀末~二十世紀初頭の話。
彼らが理論家であったのは間違いないが、
彼らの仕事は、「感性」とか「直感」そのものを問うていた点も見逃してはならない。

彼らが歴史に語り継がれる意味は、決してそれが美的に優れている点にあるのではなく、
むしろ、後世の人間が絵を続けられるように表現文法を提示した点にある。
彼らの絵を見れば、誰だって彼らのように世界を見ることができるし、
誰だって彼らのような絵を描くことができる。(が、それは真似にしかならない)

こうした絵画の芸術性と、写真の芸術性を、はたして同じ扱いにしていいのかしら。

72 投稿者: (203.136.205.204) : 2007年04月11日 05:55

>71
あなたには68で述べられた意図は十分伝わっているのでは?
芸術に理論なんていらないという議論があったのでそれに対して応えているのが68。
適切に批判し応えている時点で十分に同意している。
どの理論が正しいかの話ではなく、芸術が理論を持つ意義があると捉える、という点では同じ地平だよ。

指摘のとおり写真の芸術性は写真というメディアの特徴を考慮しながら考えるべきだろうね。
そして果たして写真が芸術足りえるか、というところからも。
写真はムービーに劣るから不要だ、ということもできるんだから。

73 投稿者: (203.136.205.204) : 2007年04月11日 06:08

>71
あなたには68で述べられた意図は十分伝わっているのでは?
芸術に理論なんていらないという議論があったのでそれに対して応えているのが68。
適切に批判し応えている時点で十分に同意している。
どの理論が正しいかの話ではなく、芸術が理論を持つ意義があると捉える、という点では同じ地平だよ。

指摘のとおり写真の芸術性は写真というメディアの特徴を考慮しながら考えるべきだろうね。
そして果たして写真が芸術足りえるか、というところからも。
写真はムービーに劣るから不要だ、ということもできるんだから。

74 投稿者: (221.113.206.7) : 2007年04月11日 10:24

>芸術に理論なんていらないという議論があったので

すでにこの時点で68は読み違えている。

75 投稿者: (61.118.169.17) : 2007年04月11日 16:12

>73
なんかずいぶん都合のいい解釈だこと。
68=73なのかな。
知識を自分のものにしている71と
そうではない、ただの知ったかの68の差かな。

76 投稿者: (59.128.141.189) : 2007年04月11日 17:02

議論のふりをした宣伝工作

77 投稿者: (59.128.141.189) : 2007年04月11日 17:26

議論のふりをした宣伝工作

78 投稿者: (59.128.141.189) : 2007年04月11日 17:28

宣伝工作のふりをした議論

79 投稿者: (203.179.93.204) : 2007年04月12日 00:04

62に書き込んだ者ですけど、64さんへ簡単ですが返答を。

62は、自分のいま持ちえている知識を踏まえての率直な感想ですね。
あまり具体例を挙げて分析するのもどうかと思うのですが、俺なりに感じたのは、この人の写真は一言でいうと「ベッヒャーシューレmeets金村修」。
つまり、タイポロジーという方法論を踏まえて、金村修的な画面内の自制のルールを含んだ作品ということ。グルスキーなどが画像処理を施すのに抵抗がないように、彼はデジタルカメラを使用することに抵抗は無いのでしょう。画面内の自制のルールというのは、具体的に、画面内に看板を入れないとか街灯の光源を入れないとか・・・。つまり、画面内に目立つ部分を
入れないことによって、中心点を作らないというか、画面全体をみせようとするやり方です。夜というのは、とてもフォトジェニックな被写体で、様々な意味を含んでいるような錯覚を覚えます。(トップランナーでやっていたけど、本城直季の学生の頃の作品がいい例で、誰もが一度はやろうとしたりする。)しかしそれだけに、よっぽどのことがないと既視感を拭えません。

「その写真には何か写っているのか」といわれてみても、俺個人の感想としては、この人が当然の如く上記の知識を有していることが容易に想像つくので、さして面白いとも思えないし、何を表現したいのかも語っていないので、すごく上っ面な感じがするのです。もちろん、写真やその他のアートにしてもなんでも、観る人が感じるところがあれば、それはその人の問題なのだから別に良いです。つまり、これは俺個人の作品を見た感想だから、俺の問題なのですよ。
あと、「読み解こうとしないのが問題」と言いますが、写真は言語を介して読み解く必要があるとも思えません。むしろ、それは深読みして意味を求めようとする、悪しき兆候だと思いますけどね。一目見た時点で、写真からは過去の経験値を含んだ膨大な情報を得ていると思います。つまり言葉を超えて、その一瞬、引っかかるかどうかっていうストレートな関係性の方が大切だと思うわけで、それ以上の説明は、なんか無理矢理な気がします。

最後に、「写真史をあまり学んだことのない私から見ると・・・」って、逃げ道つくって書き込むなんて、すげーヘタレ。

80 投稿者: たで(222.3.41.70) : 2007年04月12日 00:15

 優れた評論は写真を読み解くために有効な手がかり、撮影者の背景や撮影時の時代背景などを教えてくれます。
勿論、評論家の主観というバイアスがかかっていますから、評論にどっぷり浸かると自分の目がなくなります。

 それから、閲覧者が理論を知ることは、写真を読みとくときの参考になると思いますよ。しかし、理論だけに
とらわれると、理論で規定されるもの以外の細部を見落とすかもしれない。そういう細部の『!』とか『?』に
気付くかどうかは直感の部分だとおもう(いや、むしろ直感が発見した『!』とか『?』を思考し、言語にする
ために、理論として規定されてきたものを改めて見直すという行為を行うのだろうけれど。順番としては...)。

 そして経験が長くなり、手慣れてくるほどに、「『!』や『?』がないけれど理論的で決まった方法論の写真」
という陥穽に陥りやすくなり、理論武装に走りがちになる........のかもしれない、ので自制反省、桑原、桑原.......。

....と、まぁ、あとは上の79さん他が、既に書いていることの繰り返しになりそうですので、やめます。

81 投稿者: (61.118.159.142) : 2007年04月12日 01:09

>80
ホントそのとおりですね。

82 投稿者: (222.150.64.137) : 2007年04月12日 02:02

人の革新は写真に見方を変えるのかな。

83 投稿者: (222.150.64.137) : 2007年04月12日 02:02

人の革新は写真の見方を変えるのかな。

84 投稿者: (222.150.64.137) : 2007年06月24日 01:53

人の革新は写真の見方を変えるのかな。

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